大正元年 創業
山元酒造が焼酎の醸造を始めたのは、大正元年(1912年)。
川内川沿いの五代町十四番地、旧工場、初代、山元鶴三の時でした。
明治中期、本富安四郎の「薩摩言行録」によれば、各家庭は軒先に”九斗九升”の札を掲げ、自家用焼酎を造っていたそうです。
山元酒造創業
明治13年、酒造税則(大政官布告題40号)が交付され、九斗九升の意味するところは、その頃、免許を得ずに家庭で自由に造れる焼酎の量が、年間一石未満であれば課税されずに製造できると定められました。九斗九升といば身近な一升瓶で99本にあたります。当時、税務署が税収を確保するために、十斗を超えたら営業用とみなし、課税する法律だったようです。
大正元年10月1日 | 初代 山元鶴三により鹿児島県川内市五代町十四番地にて焼酎製造業並びに販売業創業。 |
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大正8年11月 | 第7回全国酒類醤油品評会 一等銀牌 受賞「焼酎 五代」 |
大正15年11月 | 第10回全国酒類品評会 優等賞 受賞「焼酎 五代」 |
昭和22年 二代目
昭和3年(1928年)、父の鶴三が、後継者として三男の喬(当時15歳)を指名。
当時一升は80銭。焼酎は当時組合の自主規制があり、メーカー毎に生産量の上限が決められていました。
戦時中、カメを空襲から守るため、手持ちのカメに水をいっぱいに満たすと、それを地中深くに埋めました。仕込みのカメさえあれば、どんなことが起こっても焼酎は造れると直感的に判断したといいます。
戦後、激動の時代を超えて
戦後、川内には29軒の焼酎メーカーがありました。時代の流れに取り残されたもの、あるいは後継者がいないなどを理由に、あるものは廃業し、また規模の縮小を余儀なくされ合併するなど繰り返し、昭和21年には、わずか19軒にまで減ってしまいました。
昭和26年8月4日には、地元で長く親しまれてきた山元醸造店を山元酒造合資会社へ改組。
喬が焼酎造りという家業を受け継いだ時、とにかくこれだけは守って商品を作っていこうと決めたのは、ほかならぬ品質管理でした。
苦労して造った焼酎は、毎日、夜12時頃まで、北は永野金山、南は串木野まで売っていました。
昭和35年頃には、地場最大手のメーカーになっていました。
昭和41年9月、長男浩義が帰還。
当時の山元酒造の陣容は、営業が6人製造8人の他、総務関係のスタッフを含めおよそ20人。
昭和44年のラジオCM
な?んち うまか 焼酎じゃろかい
あたいはな? 焼酎五代があれば ないじゃ いんさん
(SE)トクトクトク
あ?よかシャバじゃな?
昭和22年 | 二代目 山元 喬継承する |
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昭和26年8月 | 山元酒造合資会社設立 代表社員 山元 喬となる |
昭和29年11月 | 地酒(現在はその他雑種)の製造免許を取得 |
昭和29年11月 | 地酒「千代」発売。 |
地酒「千代」発売 地酒千代は伝統製法を今に受け継ぐ鹿児島の地酒です。 山元酒造の歴史に磨かれた「味と技」は、地酒特有の芳醇な風味に加え、適度な甘みを保った鹿児島ならではの独特な味わいを醸し出し、郷土料理の「酒ずし」や「さつまあげ」の隠し味などの旨いもの造りに励む料理人には特に愛用されています。 |
昭和54年 三代目
昭和54年、三代目後継者として山元浩義を指名。
山元浩義は、技術の継承と焼酎製造の感覚を身につけ、焼酎造りの心を大切にしたいという願いから他社に先駆け手造り工場を復元した。
手造り工場を復元
昭和61年、山元浩義は他社に先駆け手造り工場を復元しました。今でこそ手造り、甕仕込み、黒麹の言葉が一般的に使用されていますが、昭和53年から仕込甕を鹿児島県内から探し集め木桶の蒸留機を作り、釜を作り、細部にこだわり、焼酎造りに取り組んできました。浩義会長のこだわりは、技術の継承と焼酎製造の感覚を身につけ、焼酎造りの心を大切にしたいという願いから始まりました。
全ての工程が昔ながらの甕壷仕込みの焼酎「さつまおごじょ」の仕込みは、良質のさつまいものとれる9月〜12月の期間のみ。黒麹と最上等のさつまいもを使い、昔ながらの甕仕込みで丹念に造り上げた蔵内原酒をそのままに閉じ込めた、「蔵出し薩摩おごじょ」。どの製品においても、こだわりを持った職人の手と、経験と技で造り上げられてきました。
「本格焼酎 蔵の神」発売
平成10年「本格焼酎 蔵の神」発売 焼酎造りがおこなわれている蔵は、その一つ一つに個性があります。その個性はおのおのに宿っている蔵付き酵母の為です。蔵人達はこの蔵付酵母を「蔵の神」と呼んで大切にしています。 「蔵の神」は甘口の蔵付酵母(蔵付酵母を採取培養した自家製の酵母)を使用した、豊かな香りと口当たりの良い甘口タイプの本格芋焼酎です。お湯割り、水割りなどどのような飲み方をしても美味しく味わえるように仕上げてあります。 |
昭和54年 | 三代目 山元 浩義に継承、代表社員となる |
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昭和59年8月 | 東京支店を開設し、酒類販売大卸免許を取得する。長期貯蔵酒の発表を始める。 |
昭和60年3月 | 本社製造施設として「第一仕込棟」を増設。 |
昭和61年 | 焼酎造りの心を大切にしたいという願いから、他社に先駆け手造り工場を復元。 |
昭和61年4月 | 「手造り焼酎さつまおごじょ」発売。 |
昭和63年11月 | 「特黒五代」発売。 |
平成3年6月 | 福岡支店を開設し、酒類販売大卸免許を取得。 |
平成3年10月 | 山元酒造株式会社を設立し、代表取締役山元浩義となる。 |
平成4年1月 | 山元酒造株式会社で本格焼酎・その他の雑種の製造免許を取得し、山元酒造合資会社より事業を引き継ぐ。 |
平成5年8月 | 寿酒造株式会社を買収し、オガタマ酒造株式会社に社名変更。 |
平成8年6月 | リキュール類の製造免許を取得し、梅酒・キンカン酒の発売を開始。 |
平成10年 | 「蔵の神」発売。 |
平成12年10月 | 大阪支店を開設し、酒類販売大卸免許を取得。 |
平成16年12月 | 本社製造施設として「第二瓶詰棟」を増設。 |
平成17年10月 | 本社「商品倉庫」を増設。 |
平成17年11月 | 本社製造施設として「第二仕込棟」「芋蔵棟」を増設。 |
平成18年 四代目
平成18年山元浩義は代表取締役会長となり、山元隆功が四代目社長に就任、代表取締役社長となった。
商品の品質を世界基準で証明。
また、昭和初期の品種再現、新しい味覚の追求など商品開発にも力をいれており、海外へも更なる飛躍と発信を行なっている。
品質の証明 〜旨さのあかし〜
モンドセレクション2008〜2012 5年連続 最高金賞
モンドセレクション2009〜2012 4年連続 金賞
モンドセレクションは、1961年にヨーロッパの当時のECとベルギー王国経済省が、食品の品質向上を目的に創設したものです。「食品のノーベル賞」とも、「食品オリンピック」とも喩えられるこの品評会は、食品の品質コンテストとしては世界でも最も歴史が古く、現在は酒類や飲料品、食料品など、世界各国のメーカーが自信作を出品する権威のある品質選考会になっています。
審査対象となるのは、衛生・味覚・原材料・包装などの項目で、毎年世界中から4千種類以上の応募商品が審査されます。
受賞した商品は、真に国際的な評価基準を満たしており、世界に通用する商品であると言えます。
新しい味覚の追求
【平成22年】 薩摩スパークリング 梅酒
【平成23年】 薩摩スパークリング ゆずどん
平成24年に創業100周年を迎えました
「さつま五代復刻版」を発売。 山元酒造の歴史と共に歩んできた「さつま五代」。さつま五代のオレンジ紙を懐かしむ声に応え25年ぶりに復活「さつま五代復刻版」として発売いたします。原料芋は黄金千貫と昭和初期に栽培され焼酎製造に使用されていた農林二号をブレンドし、ほんのり広がる昔懐かしい焼酎の風味を再現しました。コクや旨味が引立つ人肌燗のお湯割りや、水割りでまろやかな咽ごしと芳醇な風味をお楽しみください。 |
平成18年10月 | 山元浩義は代表取締役会長となり、山元隆功が四代目社長に就任、代表取締役社長となる。 |
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平成19年4月 | 焼酎粕再資源化施設として「メタン発酵処理施設」を新設稼働。 |
平成20年1月 | 「さつまおごじょ篤姫」発売。 |
平成21年9月 | 本社 詰口棟内に「炭酸充填室」を新設。 |
平成22年11月 | 本社 事務所棟を新設。 |
平成24年 | 「本格焼酎」蔵の神 平成23年酒造年度 鹿児島県本格焼酎 鑑評会「総裁賞杜氏代表受賞」 |
平成24年 | 「本格焼酎」蔵の神 平成24年熊本国税局酒類鑑評会「優等入賞」 |
平成24年 | 創業100周年 |
平成24年 | 「さつま五代 創業百周年記念包装ボトル」限定発売。 |